シアターΧトップ>詩の通路

詩の通路

はみ出る声/意味はこれから/ひそかな集会

「詩の通路」は、2006年から始まるシアターXの自主企画です。 声/詩と音楽のパフォーマンス・舞台作品を取り上げていきます。 この企画は、二つの内容から成るものです。 一つは、企画の趣旨に基く公演のプロデュース、もう一つは、「詩の通路・ゼミ」の継続的な実施です。

企画にあたって
 私たちは、他者の言葉を引き受けることによって、自分というものになる、はずであった。しかし今や、そうともいえなくなっている。倫理より自己愛がつよく、空虚な話でこころを充満させ、欲望の対象は商品化されている。
 芸術(芸能)のこととしては、うた、かたり、の社会的なあり方の衰退をあげられる。生活環境がメディア化・テクノロジー化し、言語活動はプライヴェート化している。
 他者の言葉を引き受けることを知らない人や社会は、自己防衛、セキュリティに過敏になり、悪循環におちいる。
 私たちは、どの程度正気なのか、それをどうして知りうるか。
 今日では、声/詩と音楽のパフォーマンスという領域で、私たちは、言語化と倫理化の、美的なことと政治的なことの、臨界する出来事を経験できるかもしれない。
 そのために、他者の言葉の名残りをもとめる、「詩の通路」が考えられた。それは、正気についての判断を媒介する通路だ。「詩の通路」は、例えば経絡のように、信じられることによって実在する。
ところで、詩とは…
 ところで、詩という語には、図書分類的な通念がある一方、人の生のあり方全体が詩といわれてしまうこともあり、さまざまな用法がある。この企画では、詩は、言語活動として考えるが、言語表現の形式区別にはこだわりたくない。 声や言葉であらわされている以上の何かが無媒介的にしらされる、予感される、詩の経験をできるかどうかが問題だ。そこに、詩の、不思議さ、面白さ、自然への態度、現実との関係、が、かけられている。
 B.ブレヒトは、1934年に、「真実を書く際の五つの困難」(千田是也訳)を書いた。その中で、ブレヒトは、五つの困難として、真実を書く勇気、真実を認識する賢明さ、真実を武器として役だつようにする技術、その手に渡ったとき真実がほんとうに力を発揮するような人々を選び出す判断力、そういう人々の間に真実をひろめる策略、をあげている。
 真実という語は、普段あまり使われないかもしれない。しかし、このアピールに書かれていることは、今なお、ただしい。今も、おくびょうな心や無知が、より弱いものをしいたげているからである。それに、ブレヒトのいう真実は、哲学でいう真理とは別のことでもある。それは、アクチュアリティのようなものであろう。
 例えば、ブレヒトが1953年に書いた詩「タイヤ交換」(野村修訳)をみてみよう。 タイヤ交換という言葉は、何かの比喩をいっているのだろうか、決めることはできない。それにしても、今この詩を読むと、ブレヒトの感情はアクチュアルだ。
タイヤ交換
ぼくは道ばたの斜面に腰をおろしている。
運転手がタイヤをとりかえている。
ぼくは好かない、ぼくの居た場所を。
ぼくは好かない、ぼくの行く先を。
なぜ、ぼくはタイヤ交換を見ているのだろう
いらいらと?
劇場を使う
 ブレヒトは自らギターを弾き、自作の詩を歌い、民謡や大道芸人から多くを摂取した。 それらは、ブレヒト劇のソングというあたらしいかたちになった。
 うた、かたり、詩と音楽のパファーマンスは、より直接行動に近い表現手段になる。 あまりお金のかからず、比較的身軽にできるのがよい。
 しかし、今のようにメディアが環境化しているとき、何かを劇場でやろうとすることは、何なのか。
 1914年、ウィーンのカール・クラウスは、「劇場こそ文化を計るもっとも精妙な目盛りである(池内紀訳)」と書いていた。 そこに、一般の人々の判別力、受容力が示されるためであった。2006年、東京。 クラウスは、決して、当時のウィーンの劇場、文化を、現状肯定していない。むしろ辛辣に批評していた。 彼は、社会における言葉の使われ方を、彼のやり方で言葉を使うことによって批判し、それによって社会を批判した。 そして彼は、「文芸の劇場」という朗読会を700回行なった。 それは、ときに演技あり講演あり音楽あり、虚飾のない一人芝居、言葉の舞台だった。 メディア社会で、劇場を使う、とはどういうことか。 それは、情報化されえない価値の伝達に関わることではないかと思える。 この企画を実施することによって、そのことをさらに探究する。
このページのトップへ