「歩く」イメージ・スクリプト
シアターX5周年記念プロデュース「歩く」 作・演出:郡司正勝
(シアターX公演:1997年6月16日〜18日/ポーランド公演:1997年6月20日〜7月1日/シアターX5周年記念プロデュース公演:1997年11月25日・26日)
もし人類が歩くことができない生物だとしたらを、念願において構成した。この人生にとって「歩く」とはなにを意味するのか。
第一景 元禄花見踊
人間は平和を望む。しかし平和の世界というものが本当にあったのだろうか。人類の永久の夢幻の世界、妄想ではないのか。
太平というものの身振、表現、を太平を讃えた元禄時代の花見踊に托してみた。目の前を通り過ぎてゆく平和の幻。青春とは、天国か、地獄か。
第二景 予告(御注進)
われわれの平和は、常に不安に襲われずには成立し得ない。
平和の花は、現実にはいつも確実に眼の前で散っていった。
そのキザシ、前触れは、いつやってくるかも知れない。
「御注進 御注進」
「ナント ナント」
告知する天使の夢は、いつもおびえている。暗い影はつねに忍びよってくる。
それが平和というものであろう。
第三景 花魁道中
平和はもろく、誇り高き偽りの形。花魁道中に、つかの間の夢を托してみる。憧れと驕りと色欲に、文化に、酔いしれる平和が生み出す、差別、軽蔑等々。
第四景 凧の戯れ
男たちは、平和という馴れにいつも剽軽に時代の風に乗って浮かれ、金蔓の糸に繋がれては右往左往して、人生に踊らされる。
第5景 元禄花見踊(乱)
平和には疲れが出る。精神の荒廃。世紀末の爛熟と乱れを、再び花見踊の変相として表現する。
第六景 暴れ六方
世は暴力の衝動にうごめき。征服欲と乗っ取り、暴走族の殴り込みなどが、日常となる世の中がやってくる。
第七景 だんまり
闇によって表現される時代。人と人の不通となった疑惑と陰謀が手さぐり、足さぐりに表象される。
第八景 人形の動きで象徴される社会相
われわれは、何者かによって操られてゆくのを感じる。それを人は運命といい宿命と呼んだりする。
(A) 櫓のお七
恋愛は、出会い、ゆきずり、相手を乞うという輪違いの宿命で、それは愛という救いでもあれば愛という地獄でもある。一抹の光明でもあるが、また執着という闇でもあり、永遠の幻でもある。
(B)
誰にでも一度はおとずれ消えてゆく「無情の夢」というやさしさ。
第九景 盆踊という行事
人間は老いも若きも死を隣り合わせに生きている。人間の社会が生んだ盆行事は、この世とあの世を橋渡しする道であり、季節である。(女性たちによる白石島の盆踊りで表現する)
第十景 男の歴史
男には歴史がある。
落人の武士たちが百姓となって隠れ住んだ歴史を。(男性群によって五箇山の麦屋節によって代表する)その誇りと現実。
第十一景 戦場の人
人々は国家という巨大な魔物によってしばしば犠牲にされ戦場に引出される。それにはお互いの殺人が待っている。
第十二景 葬式の行列
人生最後の儀式である葬式の行列がつづく。
人間悲劇とは視点を変えれば人生喜劇でもある。
泣き笑い。劇は人生の表象として芸術になる。
郡司正勝先生:ある秋の日の対話 1997年10月7日
今の人は
「食えなくなる楽しみ」なんてものを
考えられもしないのねえ……
郡司正勝先生の最後の作・演出となった「歩く」の初演、ポーランド公演を終え、5周年記念公演『帰って来た歩く』を控えたある秋の日、郡司先生にその「歩く」のプラン、今日の演劇について率直に語ってもらった。生涯、演劇に深い情熱を注いでこられた先生の姿が偲ばれる。
「歩く」はとにかく歩かせてみようとはじまった
─── 今回の「歩く」をおやりになってお感じになったことをうかがいたいのですが。
●郡司 今までとは違う芝居のつくり方をしてみたいことがはじめにありました。私も最初は五里霧中でわからないんだけど、稽古しながらやってみたいということが一つあったわけです。それには一応、歌舞伎の人たちが基礎訓練でするような六方(ろっぽう)なり丹前(たんぜん)なりを教えているうちに、それがどうふくらんで、どういう方向にいくのか、見てみたかった。シアターXでちゃんと十分な稽古日数を取ってくれるというから、じゃあ、やってみようかという気になったわけです。だから、ストーリーも何もない。
─── この「歩く」公演を私のまわりで「面白い」と言っている人は、プログラムに載っていた先生の台本を読んで、あのスクリプトが、こういう舞台の形象になるのかというのが非常に面白くショックみたいでした……。
●郡司 あの台本も最初からできていたわけじゃない。稽古の段階で動きのほうから出てきたわけです。動きから出発した。とにかく歩かせてみようという動きのほうが先で、そこから何かが出てくれば…、科白(セリフ)が出てきたって何が出てきたって構わない。そうなればいいことで、稽古して動いているうちに、おれはこういう科白を言いたいと役者が言ってくれれば、面白いんだと思うんですよね、本当は。科白はすでに作ってあったものを覚えてから言うのではなく、本来、動きから生まれてくる叫びなんだから。
私が今度この芝居で一番面白かったのは、全然歌舞伎も文楽も知らない連中に遭ったということ。そのこと自体がショックだったし、新しい局面だったんですよ。楽しかったですよ。歌舞伎なんて見たこともない連中があれだけになっていくということが不思議な気がしました。私としてはたいへん新鮮な経験だった。この年になってそういう経験させてもらった。
危機を感ずる人間が本来、役者だと思う
─── このごろ芝居は観に行かれなくなったとか。
●郡司 私がだんだん芝居に行かなくなってきたのは、幕が開いた瞬間わかっちゃう芝居ばかりでしょう。
─── 今の芝居は見だしたらすぐ裏まで見通せちゃうような芝居が多いですね、テレビドラマみたいな。
●郡司 それはつまらないし、私も先がないから時間がありませんから、そんなものに付き合っていられないという気持ちがある。とにかく楽しく時間をつぶせば面白い、よかった、及第の芝居……。これではやっぱりねえ、単なる消耗品で、つまらないと思いますよ。どこかで発火点を仕掛けておかないと。
─── 世の中がよくなっているかというと、だんだん悪くなって、非常に危機感が高まっているはずなのに、なぜかみんな、それに目をつぶる方向で、芝居までが時間つぶしとか、現実を見ないで済むような時間に持っていってしまうんですね。
●郡司 そうなんだよね。そういう繁栄している中の危機感というものを感じとってくれる感覚が、舞台にも見物客にもなくなっているでしょう。せめてそういう不安感だけでも起こすような芝居がほしいね。
─── 先生が以前に、「危機感のないところに演劇は生まれない」とおっしゃったんですけど。
●郡司 演劇は危機感から生まれてくると考えている。世の中のバランスを外したところから、芝居というものは生まれてくるんじゃないか、戯曲というものは生まれてくるんではないかという気がするんですね。そのバランスは正しいものなのか、いまみたいに単なる盲目的に妥協の、流されていくだけがバランスなのか、ということに目覚めた狂気の人間がいて、そのバランスに危機を感ずる人間が本来、役者だと思うんですよ。バランスをとれる社会人から見れば狂った人間。だけど、狂っていないほうが正しい人なのだとは本当はいえなくて、よほど贋物であって、狂っているほうがよほど本物だということがいえる。
それにしても、ちょっと狂った人間がいなさすぎるんだよ、いまの世の中。
─── ここまで巨大な枠の中にはめられると臆病になってしまうんですね。
●郡司 無意識なんでしょうね。きっと。臆病になること自体が無意識である。それでないとやっていけないという意識があるから、強いてそれを平和として受け取ってしまう。危機感を感ずるのは、一種の直感だと思いますよね。俳優としての、芝居を業とする人の直感だと思いますよね。いま、そういう直感を持つ人が非常に少なくなった。
動乱期だとわりあいにそういう人が出てくる。だから、動乱期のほうが優れた作品が生まれてくるわけです。
─── いまも本当はすごい動乱期なんでしょうけど、現象的には泰平……。
●郡司 そうなんですね。下ではヘドロがウンとたまっているんだけど、上は澄んでいるというか、甘い水があるということだと思います。しかし、そういう現象自体に何も感じないということが……。
─── 考えないことにしている。
●郡司 そう。だが、気が付いて考えないことにしているんじゃなくて、自然と考えないで済む世の中になっているから、そのほうがいいというか、楽ですもの。
食えないということも大事な、生きていく道の根本的原理
─── 危機感を感ずる人が本来、芝居をやるものなんでしょうけど、いま芝居やっている人たちの多くは、ビジネス、職業として考えている。
●郡司 そうだね、職業として考えているわけです。
─── どうやったら「ウケる役者になれるか」のためのノウハウを身に付けるとか。
●郡司 いかに収入が多くて、世の中の絶賛を博すような人間になれるかということだけになってしまって。
学問だって、無償の学問があっていいと思うんだけど、いまは全部職業として、職業の技術としての学問になっちゃっているんです。だから、無償の学問をやったら食えなくなるんだという。食えなくなる楽しみなんてものを考えられもしない、いまの人は。
─── 食えなくなる楽しみというものがあったんですか。
●郡司 ハハハハ……、いえ、貧乏の楽しみはあったと思う。貧乏だからこそ毅然として人間はやっていけたという精神があったと思いますよ、昔は。「清貧」という言葉があるけれども、怖いものはない、清貧の場合は。金をだんだん持ってくると怖いものだらけですよ。失ってしまうことに戦々恐々として。
食えないということも大事な、生きていく道の根本的原理です。食えないことを出発にしなければ、動物なんて一人前になれない。親が保護ばかりしていたらね。だから親は、狐でも狸でもみんな、年になると外へ出そうとする。子どもを蹴散らして、追い出してしまう。そして無一物から自分から物を獲ることを教えていく。それは善悪とは関係ないのです。そういう生きていくという事象をいまの若い人はなくしてしまっているんだから、結局は。
─── 芝居を観てどうしようというんじゃなくて、ひまつぶしに観ている人にウケるとしたら、わかりやすくて、おもしろおかしいものということになるわけですよね。
●郡司 そうですね。批評家も、欠点がない、うまくまとまっていれば、「よくできました」というマルをつけるわけです。本来、警鐘を鳴らすことが批評家の役目なんですが、いまの批評家の水準が一番落ちている時代だと思いますよ。もう少し批評家がちゃんと第一線で役目をまっとうしていれば……。昔は批評家であり、演出家であり、作家であるという人がかなりいたけれども、もうそれもいない。
演劇が総合芸術というのは 私は嘘だと思う
●郡司 演劇が総合芸術というのは私は嘘だと思う。商業ベースからみたらそういうことであって、演劇の本質とは関係ない。
結局突き詰めていけば、俳優だけいれば演劇は成り立つと思うんです。俳優は同時に演出家でもあり、作家でもある。それがだんだん大きくなって分業していくと、大劇場になっていき、総合芸術になってくるわけです。そうなれば、それぞれの担当がけんかすることなくうまくやっていこうとなるだけ。絶対妥協できない点がたくさんあるんだけれども、目をつむり妥協することによって芝居が成立していくようになってしまう。だから大劇場主義というのは間違いだと思う。
─── そうなってくると、ますます役者の俳優修業が重要になってくるのですが、いま俳優修業はいわゆる演劇大学がないからだめなんだとかいわれていますが……。
●郡司 そう、大学がないからだめとか。もちろん比較してみれば、それはあったほうがいいということにもなるし、そういう場があると羨ましいということにもなるでしょう。だが、根本的には俳優の革命、俳優個人の革命しかない。
寺子屋で、その人の方式で最高の教育をする
─── それにしても、俳優のための基礎を勉強するところができないと……。
●郡司 やるとしたら、寺子屋が一番だと思いますよ。学校方式でいろんな先生を呼んできてやらせるなんて、あまり成果がない。やっぱりワンマンというか、独占で、その人の方式で最高の教育をする。俳優もその人と合わないと思ったらどんどん辞めていけばいいわけだし、理想だ…と思いますけどね。
─── じゃ、先生の寺子屋をつくろうかな。
●郡司 フフフ。
─── 寺子屋って、別に毎日じゃなくていいんでしょう?
●郡司 合宿みたいなものだね。ときどきの。
─── その寺子屋の先生は、一人ということなんですね。
●郡司 一人でなくたっていいと思いますけど。仲間が二〜三人いたって構わない。だけど、お互いに、あいつのことはよくわかっているという連中でないと具合が悪いです。有名な人ばかり集まってきたってダメだと思います。
日本経済新聞「交遊抄」より抜粋 1998年4月24日
最後の作品
さる15日に逝ってしまわれた郡司正勝先生から、つぶさに学んだことは旺盛な創造意欲と批判精神であった。先生の作・演出『青森のキリスト』を四年前に私の劇場、シアターX(カイ)で上演するに当たり、取材旅行に同行して以来、様々な指導をいただいた。ただ、お互いに“人見知り”の性格だったゆえか、インパーソナルで理想的な距離を保っての共同作業を、多く続けてこられたのかなと思う。
昨年、劇場の5周年記念企画として先生にお願いし、制作した『歩く』をポーランドで公演した際、現地の新聞評で「高名な古典芸能や歌舞伎研究の権威でありながら、日本独特の伝統様式をあくまで媒介とした、ポスト工業化社会の現代を模索している今日的演劇……」と高く評価された。無理を押して同地を訪れた先生は「日本ではわたしを学問の範疇(はんちゅう)での探求者に押し込めておこうとし、創作については余技に過ぎないと考えられているようだが、さすがポーランドだね」と言われた。
しかしこの一月札幌で、今夏シアターXで踊る大野慶人さん(舞踏家)のために台本を考えてくださるよう無謀を承知で懇願した私に、郡司先生は「今度ばかりは駄目ですよ。もう生きてはおりませんから」と答えられた。
にもかかわらず、その三週間後、慶人さんと私は病床に伏されたままの先生から「題は『ドリアン・グレイ最後の肖像』──イメージは聖徳太子像、仏から鬼へと変身する」と内容について聞かされた。郡司正勝最後の作品をこの八月、慶人さんが踊る。
(上田美佐子 演劇プロデューサー)
◆郡司正勝 著「歩く」シアターX発行/港の人 発売中 お問い合わせ:シアターX