ワークショップの記録

シアターΧでは開場以来、若手俳優を育てることを模索してきた。故・郡司正勝氏(歌舞伎研究家。自らも舞台を作・演出、1913〜1998)は「演劇大学がないからだめだとか。それはあった方がいい。だが、根本的には俳優個人の革命しかない」と。
国内外の講師による、真剣勝負の俳優修業の記録集。

つかこうへい演劇学校(1993年8月/1994年8月)

■つかこうへい:1974年、劇団『つかこうへい事務所』を設立。1974年、『熱海殺人事件』で岸田國士戯曲賞受賞。1980年、第15回紀伊國屋演劇賞団体賞受賞。1981年、『蒲田行進曲』で直木賞受賞。1994年、東京都北区と協力し、北区つかこうへい劇団を創設。日本で初めて行政のバックアップを受けた劇団として多くの関心を集めた。シアターXでは『熱海殺人事件・エンドレス』(1993年)、『熱海殺人事件・モンテカルロイリュージョン』(1994年)、『蒲田行進曲完結編 銀ちゃんが逝く』(1995年・1996年)など。



シアターΧ情報誌ニューズレター10号より抜粋 1994年1月20日

時代を超えて、常に若者を刺激するつか演劇


 今回の『熱海殺人事件』には、一本の戯曲の持つ可能性に対する、限りない挑戦が込められていた。昔、コーヒーの宣伝文句に、「いいものは……変わらない……」という台詞があったが、「いいものだからこそ、ここまで形を変えることができる」と、あくまで、私個人的には、認識を変えたいと思う。
 4月の『オーソドックス・バージョン』から始まり、8、9月の『モンテカルロ・イリュージョン』では、阿部寛を伝兵衛に抜擢し、工員が女工の首をしめるという本来の事件ではなく、元スポーツ選手数人による、哀しいドラマが産み出された。そして、『妹よ』では、鈴木聖子による、初めての女伝兵衛も生まれた。本当に、一本の芝居に、ここまでの力があるなんて、ものすごいことだと思う。
 ──中略──
 それにしても、この8ヵ月間、一体、どれくらいの数の高校生が両国を訪れたことだろう。彼らにとって、両国は「国技館」の街ではなく、「シアターΧ」「熱海殺人事件」の街なのである。しかも、お金を持っていそうで、実は持っていない高校生にとって、高いチケット代は、常に悩みの種なのだが、かなりありがたいものであった。さらに、夏休みに開催された、高校生のためのワークショップは、大変盛況で、高校生にこんなすばらしい機会を与えてもらい、本当に心から感謝している。このワークショップが、若い彼らに与えたものは、かなり大きなものだったようで、特に高3の生徒の一人は、「この3日間で、私が受けたショックは、今まで芝居をやってきた中学、高校の6年間を超えていました」とまでいっていた。(ちなみに、6年間指導してきたのは私です)
 もちろん、全員が役者を目指しているわけではないのだが、参加した一人ひとりが胸を熱くした3日間であったのだろう。特に最終日は、ものすごい台風で、昼には電車が全て不通になり、道路もどぶ川状態になってしまったにもかかわらず、つかさんは来てくださったのだ。高校生のためにである。しかも、予定では5時に終わるはずが、「電車が動いていないんじゃ、今終わっても帰れないでしょう。電車が動き出すまで続けましょう」
 と、ワークショップは9時過ぎまで行われた。何度もいうが、高校生のためにである。
 ──中略──
 つかさんは、そんな高校生のために、9時過ぎまでつきあってくださったのだ。ばかにすることなく、真剣に向き合ってくださった。この姿勢には、本当に頭が下がる。
(1994年1月20日 西澤周一)

1994年8月8日〜12日
1995年3月20日〜26日
「つかこうへい演劇教室」
舞台を見つめるつかこうへい

緊張しつつ、舞台に立つ受講生

ヤン・ペシェクによるワークショップ(1992年10月/1994年10月)

■ヤン・ペシェク:1944年ポーランド生まれ。クラクフ演劇アカデミー卒。由緒あるスターリ劇場の俳優として古典から近代、前衛まで演じている。映画でもアンジェイ・ワイダをはじめ多くの作品に出演。1988年『スワン・ソング』の主役でグダニスク映画祭グランプリ受賞。演出家としても活躍。
シアターXでは『狂人と尼僧』(1992年)、『砂時計のサナトリウム』(1994年)、『存在しないが存在可能な楽器俳優のためのシナリオ』(1996年)、ヤン・ペシェク演出で日本人俳優による『王女イヴォナ』(1997年)。1992年と1994年に「ヤン・ペシェクの俳優修業」ワークショップ。


シアターΧ情報誌ニューズレター14号より抜粋 1994年12月5日

『楽器的俳優という試み』について


 さる(1994年)10月、シアターΧオープニング2周年記念公演で来日、ブルーノ・シュルツの『砂時計のサナトリウム』を世界初演したポーランドの代表的名優ヤン・ペシェクによる第2回ワークショップが、7日間にわたって開催された。
 初心者を対象にした第1回につづき、今回はオーディション選考された若手経験者を対象に、劇作家シャフェルのテクスト『四重奏』をもとにしたかなり専門的なワークショップであった。しかも見学者も、若い俳優たちはもちろん、作家や音楽家など、多くの人の前で行われた。
 今回のテクスト『四重奏』は1966年にシャフェルが俳優になるためのすぐれた訓練として書いたものの一つです。そのほんの一部を使って、「音楽も楽器がなければ美しい音も出ません、俳優もすばらしい楽器となることを!」と、ポーランドで演劇大学の教授でもあるペシェクさん。
 「つまりこれは、俳優という職業に対しての一つの問題提起です、一つの可能性を試みたにすぎません。俳優を楽器にたとえてしまうというやり方です。そして役づくりをスコアや楽譜に置き換えてやってみるという試みです」
 「しかしそれをどうやるかを分析することは、労働者と同じで、計画しそれを果たさなければということになり、俳優にプレッシャーとなる。解釈したり、演技したりすることではない。個々の直感が大事なんです。舞台にいる、生身の人間がいるということ。どの人も生きてそこにいるということ。そしてその一人ひとりは同じではない、人は最初から個性的なものだから」
 受講生は、男性ばかり4人、女性ばかり4人、男2人+女2人、の異なる構成の3組に分けられ、4人それぞれが、第一、第二ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラという楽器となって、「四重奏」を奏でるというモチーフである。つまり──
 1日目はウォーミングアップからはじまり、呼吸法、動きの基礎練習。さまざまなリズム、緩急のきりかえ、イメージの提示などに的確に反応することを要求される。2日目、パントマイム。例えば洋服を着たり脱いだり。脱ぐのに30分もかけたりする。時間がぐーんと伸びたとき、俳優はそれに耐えられるか、つき合えるか。しかもそうする中で、告白をしなくても無意識にその人の人生状況をわからせてしまう、というような試み。四重奏のはじめの部分、アンティフォーネの練習。間のとり方、アンサンブルとしての動き、つまりお互いを感じ合うことの基礎訓練。3日目、いろいろな方法をはじめるが合わず、不協和音を起こし、4日目、じゃあアンサンブルを探そうとする。が、探せずに爆発。バラバラな演奏の中で最大のfff(フォルテシモ)に。5日目、探すという迷路から、全く新しい方法で脱出。意味のないところから完璧な四重奏が生まれる。四重奏の再編成がなされる。そして6日目、大きな間の後、今までのあらゆるシーンのしかも孤独な個人練習がなされ、突然最初のシーンに戻り、今度は理想的な四重奏が完成し、満足のうちに幕となる。
 ──中略──
 ポーランドの演劇学校では、このプロセスを数ヵ月かけて訓練するそうです。終わりに、ペシェクさんは、「俳優には、もっと職業的知識が必要です。俳優はそこにある生活空間をまねしたに過ぎなくなる。そして演技をしてしまう。俳優は演技を捨て続ける努力をしなければ。俳優の動きひとつとっても偶然であってはならない。俳優の仕事は規律正しいものです。そして俳優は、演劇的空間を自分のものにできて初めてプロになるのです」と。

1994年10月21〜27日
  ヤン・ペシェク(ポーランド)のワークショップ「楽器俳優という試み」

一年がかりの芝居づくりワークショップ(1995年〜1996年)講師:大橋也寸

■大橋也寸:近畿大学名誉教授/近畿大学国際人文科学研究所客員教授。ジャック・ルコックに直接師事。クラウンに代表される「創造性と想像力」を養う独自のルコック演劇教育法を学ぶ。のちに同演劇学校の教授となる。帰国後は劇団雲・演劇集団円で演出。シアターΧでは1995年演劇集団円公演ヴィトカッツイ『母』を演出、2008年マーケットプレイス公演『ニートの夜明け』の構成・演出。


シアターΧ情報誌ニューズレター19号より抜粋 1996年4月10日
PIN-UP《ワークショップ考》

長期の芝居作りをめざして…求められる俳優修業


 演出家大橋也寸さんが一年がかりの芝居づくりをめざして、シアターΧでワークショップをはじめた。
 「フランスに留学してジャック・ルコックという世界一の先生に出会い、芝居の作り方を学んだ。感受性を柔らかくし、固定観念をとりはらって、物を、人間を見ること。外界の変化に人間の生理はどのように対応するのか。他人と出会った時、一人ひとりに違う反応をし、その日の気分にしたがってタイミングをとる。そんな流動しているものをどうやって意識し、再現するのか。そしてそれを観客に実感してもらう方法がある。ということを知りました。外国の映画を見ていれば、常識としてやっていることなんですけどね」

「サクラのサクラ原体験」の公演案内より抜粋
演出:大橋也寸 (1996年8月3日〜10日)

一年がかりの芝居づくりワークショップの試演会

安部公房をめぐる戦後50年を劇化する

そもそもの成り立ちと行きがかり

 安部公房作品を舞台化してきた演出家大橋也寸、アンジェイ・ワイダなど東欧の演劇をプロデュースしてきたシアターΧの上田美佐子、勅使河原プロダクションで映画の企画に参画していた野村紀子、この三人が中心となり、“1年がかりの芝居づくり”と名うった稽古並びに試演会が始まったのは95年の暮れからです。
 「まず安部作品に出会ってもらいたい」と96年2月のワークショップの呼びかけに、稽古場に入りきらないほどの人数が集まり意図の説明から始まった。演劇集団 円をはじめとするプロの俳優さんから、近所のコンピューター会社を休職中のサラリーマン、劇団ひまわりの高校生、果ては俳優座4期生の年配の方から、この間まで中学生だった子供までいる。それぞれが安部公房の短編小説を劇化する作業に入った。
 「ハチャメチャにやろうよ、だって安部さん自身が何でも一から発明した人なんだから」(大橋也寸)
 そして(1996年)4月8日に「赤い繭」「使者」「ごろつき」「人魚伝」など十作品を「アベオタク」と題して試演した。
 今回は五つの長編小説「砂の女」「燃えつきた地図」「他人の顔」「箱男」「方舟さくら丸」をとりあげ舞台化を試みる。段ボールを頭からスッポリかぶって女優さんを覗いたり、便器に片足を突っ込んで高慢な哲学を述べたり、と暗中模索の稽古が続いている。お客さんの好みを度外視にするとして、一風変わったお芝居に。
 ──中略──
 花田清輝や岡本太郎などの戦後第一世代が起こした前衛芸術運動が歴史として片づけられようとしている今、彼らから直接指導を受けた弟子たちが巻き返しの連帯といえなくもない。あるいは手弁当の年寄りの悪足掻きかな。

1995年〜1996年
「大橋也寸の一年がかりの芝居づくり」
レッスン中の大橋也寸(中央)

「アニシモフの俳優のためのマスタークラス」2ヵ月。
(2000年3月11日〜5月10日)

講師:レオニード・アニシモフ(ロシア)

■レオニード・アニシモフ:国際チェーホフ劇場(ウラジオストク)芸術監督・首席演出家。ロシア功労演出家。日本・ヨーロッパ・アメリカでも活発に公演・国際交流活動をつづけている。現在、ロシア・ウスリースク市立ドラマ劇場芸術監督、東京ノーヴイ・レパートリーシアター芸術監督。


 このマスタークラスは、ロシアの演出家レオニード・アニシモフと日本人俳優たちとが四つに組んで、チェーホフの『三人姉妹』を演じるための創造作業をしていきたい、と。2ヵ月、チェーホフを現在どのように捉え──どのように的確に表現していくか──そしていまの日本の観客にどのように提示していくか──。
 それは指導するアニシモフにとっても、俳優にとっても、互いの全実力と誇りとを賭した、妥協のない真剣勝負(模擬ではない)のエクササイズです。

【参加者の感想】
(1) この2ヵ月間は、たんに時間の長さで計れないほど、凝縮したものであり、演劇の世界で生きてゆきたいと思っている自分に、確信を与えてくれました。今まで数少ないけれど舞台を経験して、自分の思いを描いていた世界と現実とのギャップに悩みました。演出家の振り付けで動く駒のようで、私が私である意味を感じられない。客に見せるために、自分の気持ちに嘘をつく。“お客に見えなきゃ、伝わらなくちゃ意味がない”と、もちろん自分もそう信じきっていたし、自分の演技力が問題なんだと思っていました。けれど、いつもどこかで何かが違うと思っていた。同じことを感じていた友だちとの間では、“芝居だからこそ嘘はつきたくないよね”と話していました。だから、アニシモフさんからペレジバーニエの演劇の話を聞いたとき“これだ!”と思いました。自分の求めていたものはここにあると感じ感動しました。「真実」この言葉が、私を支配しています。そして客に見せるのではなく、そこに真実があれば、客はみてとるのだということも納得させられました。そして改めて、演劇とは感情を表現するものであることに気付かされました。
中澤佳子(スタッフ)

(2) 自分の中に入った体験としては、戯曲の読み方というより舞台での居方という方がいいかもしれない。戯曲の読み方は、「はじめはモノトーンで読んで言葉のエネルギーを浮き立たせ、次に課題をもって…」ということは、順序として頭に入ったが、やはりアニシモフさんに一人ひとりの人物の超課題を何度も言葉や身振りで表してもらうまでは、私の今の能力では一行一行のそこにある意味が嗅ぎとれなかった。これを今後一人の作業としてやっていくときに、すぐには何もできないだろう。「課題」すら、いまだに決め方も実行のしかたも感じとれないと思う。でもそれはまだあたりまえのこと。順序を教えてもらえたこと、課題は本当に自分にしか決められないこと、エモーションと感情の違いが、ほんのすこしでも感じられたこと、見ている側は演じている側が思っているよりずっと、演じる側の内面を把握し感じていること、等々、本当に書ききれないたくさんの大事なことを吸収できた。
 特に私にとって大きかったのは「内的ヴィジョン」で、自分の中に絵を見ること、これが少しでもできたことによって舞台上にいるのがとても楽になって驚いた。自分がどうしてやろう、観客からどう見えるだろう、そういったことがずいぶん薄れる。しかし最終日になって、やはり「内的ヴィジョン」の交換だけでは、その場の体の反応に頼りすぎて方向を見失うおそれがある、と感じた。課題は持っているつもりだったのだが、きっと、より具体的なものにすることによって、これは解消できるような気がする。
 アニシモフさんが「俳優は自分自身の人生に対して非常にオープンでなければならない」と言った。その覚悟が自分にあるのか。とても厳しいが、とても嬉しかった。
湯本はるな(受講生)

レオニード・アニシモフの講義を受ける受講生ら(シアターX劇場で)
(撮影:中川忠満)

2000年3月11日〜5月10日
「アニシモフの俳優のためのマスタークラス」2ヵ月。
『三人姉妹』を題材にしたレッスン
(撮影:中川忠満)

シアターXカイ俳優養成学校(2003年4月1日開校)講師:西村洋一

西村洋一による3年制の本格的高等演劇教育

■西村洋一:1967年生まれ。東京工業大学卒業。1996年より5年間、ロシア国立サンクトペテルブルグ演劇大学の演出学科で学ぶ。シアターXでは2001年5月『ワーニャ伯父さん』、2003年3月『まねかれざるもの』を演出。


日本人俳優としての演技の質の向上と、シアターΧでの公演活動が継続保証されていく上演システムをめざしての3年制。

『シアターΧ俳優養成学校の半年(1年目の前期)』

 シアターΧ俳優養成学校が始まって、半年が経った。講師であるわたしと稲田綾子が、ロシアの演劇大学を卒業していることもあり、当俳優養成学校はロシアの演劇大学がモデルだ。2003年9月から始まり、過程は3年間。目標は「舞台で本当に生きる」という力を養うことである。これまでの授業を振り返ってみたい。
 演技の授業では、寸劇、架空の物を使ったエチュード、人間観察のエチュード、幼年時代のエチュード、小説の一部を演じる、などの課題に取り組んだ。生徒たちが「舞台で生きる」ための基礎を身につけつつあるという、手応えを感じている。
 声を出すことに関する、レーチという授業もある。いわゆる発声やカツゼツに始まり、詩を読みながら演じることや、戯曲の台詞への取り組み方までカバーしている。ロシアの授業内容を基にしながら、古事記をはじめとする日本の古典なども取り入れて、稽古をしてきた。
 このほか、能の講義を荻原達子さんにしていただいた。5回の講義だったが、能の世界に触れさせて頂けたのがよかった。実技では、クラシック・バレエを榎本久子さん、アクロバットをナジェージダ・ティーシェンコさんに、それぞれ教えていただいた。体の使い方などの面で、進歩が見られている。
 2004年2月には、ロシアからワレリー・ガレンデーエフ氏を招聘し、正味10日間のレッスンをして頂いた。ガレンデーエフ氏は、ロシアでも有数の俳優トレーナーである。サンクトペテルブルグ演劇大学の教授であり、来日したサンクトペテルブルグ・マールイ・ドラマ劇場(旧レニングラード・マールイ・ドラマ劇場)の俳優トレーナーである。声のトレーニングを駆使しながら、戯曲のシーンの稽古に移っていく特異なスタイルだが、ガレンデーエフ氏の発声が見事なのと相まって、受講した生徒たちは相当な衝撃を受けていたようだ。
(西村洋一)

体験! マールイ・ドラマ劇場の俳優トレーニング
(2004年2月9日、10日、16日、17日)

講師:ワレリー・ガレンデーエフ

■ワレリー・ガレンデーエフ:ロシアにおける俳優トレーニングの第一人者。演劇言語学およびヴォイス・トレーニング法の発展に貢献。


 ロシアのみならず世界の演劇シーンをリードする、サンクトペテルブルグ・マールイ・ドラマ劇場より、俳優トレーナーとして活躍するワレリー・ガレンデーエフ氏が来日!
 この機会に、ロシアの演劇学校では「演技」と並ぶ必須科目とされている『レーチ』を手ほどきしていただくことになりました。『レーチ』とは、単純に声を出すことからセリフを話すことまでカバーした。ヴォイス・トレーニング・メソッドです。また、ロシアにおける俳優教育をテーマとしたレクチャーもお願いしました。

2004年2月
ガレンデーエフ(ロシア)のレーチ・ワークショップ
ガレンデーエフ(右から2人目)と西村洋一

「桃山晴衣との俳優修業」
(2003年7月18日〜8月15日 発表:8月16・17日)

■桃山晴衣:1963年、人間国宝4世宮薗千寿の唯一の内弟子となる。1974年家元をやめ、日本の音楽のうまれた状況、生きている状況をさがすため、日本各地の子守唄、古謡、わらべうたを訪ねる。1980年に12世紀の流行歌謡集「梁塵秘抄」を作曲、伝統と民族音楽のエッセンスを美しく融合させた音楽世界を確立。1995年より語り物の地平を拓いた今様浄瑠璃『夜叉姫』『照手姫』『浄瑠璃姫』を発表。ピーター・ブルック演出『テンペスト』で、2ヵ月にわたる歌唱指導。太陽劇団(フランス)の俳優養成所にてワークショップ1ヵ月。1999年より毎年シアターXで「桃山晴衣との俳優修業」1ヵ月を2003年まで継続。


1ヵ月のトレーニング結果を舞台にかける
まず自分の生き方の今を掴むために

●目からウロコの体験、体感!

呼吸、気(エネルギー)、発声。美しい日本語を話す。日本語のもつ様々な表現。うた(アイヌ、日本の歌色々。明治大正演歌を取り入れます)。コミュニケーション。

●見違えるほどのあなたに変わる。

身体訓練を徹底します。BODYムーブメント。着物による美しい所作。気功、食べ物など。


●講座──
 日本人が育んだ感性を取り戻す。
 日本人とは何か?
 ・私たちの感性の成り立ちと独自性
 ・桃山ならではの日本音楽講座
●特別ワークショップ

様々な表現の試み。気功など、他の第一人者を講師にした訓練も。



【一ヵ月のトレーニング成果発表】
●プログラム
 『明治・大正演歌』添田知道直伝 泉鏡花・作品『化鳥』(朗読)、『天守物語』
 この俳優修業の一環とし、現在も継続的に大雁気功(指導:中川進)を月3回行っている。


シアターΧ批評通信18号より抜粋 2003年9月23日
「桃山晴衣との俳優修業」1ヵ月(1999年から毎夏開催し5回目を迎えた)
「俳優修業」1ヵ月の成果─君はこの世界にすっくと立てるか

 舞台に浴衣姿の「俳優修業生」たちが現れ、自然の流れで円陣を作り、大きく深い呼・吸とともに「ビンキー、ダブダ、ビンキバリンバ、ダ、ダ、ダ」と唱える。これは、アフリカ・セネガルの歌に想を得て、息が弱く浅く短くなってしまった日本人のためにと桃山晴衣が呼吸・発声法のワークに取り入れたものだ。これで全員の「気」が合い、指導者もなく、明治の「演歌」・ダイナマイト節が始まった。ことばを大切にしたストレートな発声は、自由民権運動から生まれた「演歌」の心をつぎつぎと観客の心に響かせた。
 断っておくが、これは批評ではない。1ヵ月のワークショップの成果発表会は批評の対象としてなじまない。しかも私は批評する立場にいない。というのは、私はこのワークショップに興味を持ち、1ヵ月間のトレーニングの間ときどきワークの独自性と厳しさがどのように参加者一人ひとりを、肉体的にも精神的にも変えてゆくのか観察していたが、最後の一週間は、その熱気の渦の中に私自身巻き込まれて若干の手助けをすることになったからである。
 興味を持った、何故。「梁塵秘抄」を作曲し謡い、また今様浄瑠璃の物語を作詞作曲し謡う、桃山晴衣が「うた修業」を主催するのは当然だが、ピーター・ブルック劇団や太陽劇団との深い交流があるとはいえ、演劇人による俳優養成ワークショップが数ある中で、自ら「俳優修業」を指導するとは、現在の日本の演劇状況のみではなく、文化状況に大きな疑問・批判をもち、それに対する提案をもっているに違いない。また、ヨーロッパのみではなく広くアジアのアーティストたちと交流・コラボレーションで得たものと、日本文化の奥底に流れるものの探求とから、彼女自身で編み出した「修業」とは。さらには、彼女がかねがね拓いて来た日本語の多様な表現と劇との出会いはどのように結実するのか。
 彼女が行うワークをすべて書きつくすことはできないが、私が理解したその一部を紹介する。まず、身体と心を整え開放し「気」を取り込む「香功(シャンゴン)」「大雁功」を基礎におき、開脚屈伸前方飛びで腰を強化し丹田に気を漲らせる。腰の据わった歩み、伸びた背筋で長時間の正座ができるようになるのは表面的なことである。彼女は一人ひとりの体と心の中に眠っている生命力を自発的に発見させ、個性と表現の多様性に結び付けようとしている。またそのことによって現代社会で息絶え絶えとなってしまった生身のコミュニケーション力を再生させようとしている。そのためにも、パターン・ルーティンは厳しく拒否し続ける。一方、古代からの日本芸能史を説き、食事のあり方に言及し、大自然の循環の中ではぐくまれた日本人の感性を取り戻させようとする。
 こうしたワークの成果が泉鏡花の『化鳥』の連続と『天守物語』にも現れた。世間の常識に抗して生きる母子の愛を描いた『化鳥』では、朗読パターンを排した一人ひとりの自然な声と、それから生まれる微妙な音色から、鏡花の母恋いの情念が静かに浮かびあがった。
 『天守物語』では、桃山晴衣による適切なテキスト編集と簡潔だが力強いセットに支えられて、「修業生」たちは若さ未熟さを超え、天守に住みつき地上の権力に抗う妖妃富姫と妖怪たちのエロスを、滑稽を、グロテスクを、そして不条理で一途な愛を、「気」の漲る緊張感の中で、表現するにいたった。
 とはいえ、これを豊穣なものにするには遙かな道のりが必要だ。しかし「修業生」たちは、一ヵ月のワークの中で、原初に帰り心と体と感性を自発的に発展させる手がかりを得、生き生きとコレスポンデンスしながらで、舞台に、いやこの世界にすっくと立てる人間に変貌しはじめている。
 この桃山晴衣と「修業生」たちとの真摯な関わりあいの総体が、日本の演劇・文化状況への彼女の鋭い批判なのである。
(遠藤利男:演出家)

桃山晴衣

浴衣姿になり、劇場舞台で所作を学ぶ

イスラエルの演出家ルティ・カネルのワークショップ
(2008年7月31日〜8月8日)〔公開発表:8月8日(金)18:00〕

■ルティ・カネル:イスラエル・テルアビブ大学舞台芸術学部、ニューヨーク大学、ニューヨークHBスタジオにて演技と演出を学ぶ。1990年からテルアビブ大学舞台芸術学部演技科主任教員。シアターXでは『野ねずみエイモス』(2002年)、『母アンナ・フィアリングとその子供たち』(2005年)、『新 母アンナ・フィアリングとその子供たち』(2007年)、『エウメニデス』(2007年)、「俳優のためのマスタークラス」を毎夏続けている。


「俳優のためのマスタークラス」08

テーマ “夢” DREAMS

 私たちのみる夢はイメージの宝庫です。その中には人の思想や願望や不安が姿を変えて詰め込まれ、胸躍る冒険の世界がおさめられています。
 夢が生じるメカニズムは、芸術の創造に用いられるテクニックにも似ているところがあります。ですから、演劇という文脈のなかで“夢”を探求していくと、芸術創造のプロセスを習得し発展させるための鍵を、私たちは授けられることになるでしょう。夢のメカニズムをコード化したもの(たとえば“転位” “圧縮” “反転” “象徴化” …いずれも精神分析用語。たとえば“転位”とは、感情の向けられる対象が本来のものから他に転じること。“圧縮”とは、二つ以上の観念、感情が一つに融合されること)には顕在化したものと潜在化しているものとの複合的な結びつきが明白に表われています。このような結びつきを探求するべく、私たちは“夢”というテキストと、それと併行して舞台上にもたらす事態との関係性をたどっていくことになるでしょう。
 このワークショップにおいて、参加者は自分がみた夢を文章に記録し、これを持ち寄ることとします。これらをテキストとして、各人あるいは共同で、夢の世界を舞台上でどう表現するか、その方法を模索します。
(ルティ・カネル)

ルティ・カネル(イスラエル)

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